2023年のWBCで活躍し、シーズンでは日本人最速タイの165キロをマークするなど世界にその名を轟かせている佐々木朗希投手。
「令和の怪物」とも言われている佐々木朗希投手を育てた学校は一体どこなんだ?と気になる方が多いようです。
そこでこの記事では、佐々木朗希投手の学歴や小学・中学・高校時代のエピソードについて紹介していきます。
佐々木朗希の小学校はどこ?
佐々木朗希投手は、3年生までは陸前高田市立高田小学校、4年生からは大船渡市立猪川小学校に転校して卒業しています。
佐々木朗希は東日本大震災の影響で転校経験がある
佐々木朗希投手は陸前高田市高田町出身で、元々は陸前高田市立高田小学校に通っていました。
野球を始めたのは小学校3年生の時。
毎日友達と3対3で野球で遊んでいて「この頃が一番楽しかった」と振り返るほど充実した小学校生活を送っていました。
そんな中、2011年3月11日に東日本大震災が発生。
東日本大震災による津波の影響で実の父親と祖父母を失い、実家も流されてしまいます。
想像を絶する少年時代だったんですね。
被災した佐々木朗希投手は母方の親族が住む大船渡市に避難。
4年時から大船渡市立猪川小学校へ転校します。
移った先の大船渡市も東日本大震災を被災した地域。
猪川小学校の校庭には佐々木朗希投手自身も住んでいた仮設住宅があったため、野球の練習場として使えませんでした。
そのため河川敷での練習を余儀なくされましたが、保護者の力を借りて何とか野球の練習ができていたと佐々木朗希投手は振り返っています。
照明施設がないため、車のヘッドライトや工事用の照明などで光を確保するなど大変苦労したそうです。
小学校の時点で千葉ロッテ入りの未来が決まっていた?!
そんな辛い環境の中「野球をしている間は辛い経験を忘れられた」と本人が語っているように、ひたすら野球に打ち込んでいた佐々木朗希投手に運命のいたずらとも言うべき出来事が起きます。
実は6年生の時に、後に入団する千葉ロッテマリーンズの本拠地・QVCマリンフィールドでプレイしています。
岩手三陸沿岸の少年野球チームによる大会「リアスリーグ」の決勝戦のことでした。
ロッテに入団した今から考えると、すごい偶然ですよね。
佐々木朗希の中学校は?
佐々木朗希投手は、大船渡市立第一中学校に進学します。
佐々木朗希投手の中学時代は2年生時にエースナンバーを背負うものの、怪我に見舞われて投げられない時期が続きました。
ですが、この苦しい期間を経たことでものすごい成長を遂げます。
ケガをきっかけに剛腕投手の仲間入り
佐々木朗希投手の中学入学時の球速は120キロ台。
怪我後にリハビリと共に徹底的に体を鍛えた結果、中学3年時には自己最速の141キロをマークするなど常時140キロを投げる剛腕投手に変貌します。
そんな剛腕投手だったにもかかわらずめった打ちにされた時のエピソードが、当時の佐々木朗希投手の性格を表しているので紹介します。
「当時から球速に自信があった朗希が、真っすぐしか投げてこないことはわかっていた。終わった後『なんで打たれたかわかるか?』と聞いても、『わかりません』と。『野球は直球だけじゃない、一球でも変化球を見せれば違うんだぞ』と言って聞かせた。野球に関してはとにかく気の強い子でした」
東京スポーツより引用
「ストレートしか投げてこない」と読んでいた相手の監督のコメントなのですが、佐々木朗希投手の負けん気の強さやこだわりを感じるエピソードですよね。
強い地元愛の前にスカウトは通用しない
中学3年で常時140キロが出るピッチャーを、日本中の野球の強豪校が放っておくわけがありません。
県内外の様々な高校からスカウトを受けた佐々木朗希投手ですが、地元の高校に進学することを決めます。
進学の決め手は地元愛です。
強豪校に行って自分だけ甲子園に行くのではなく、震災で辛い時期からずっと一緒に野球を続けてきた大事な仲間たちと甲子園を目指すことを選んだというわけです。
仲間思いで本当に素敵です。
佐々木朗希の高校は?
佐々木朗希投手は地元の大船渡高校に進学します。
佐々木朗希投手は高校で更なる進化を遂げます。
えげつないペースで最高球速を更新
佐々木朗希投手は高校時代、毎年6~7km/hずつ最高球速を更新していきます。
- 1年夏の県大会:最高147キロ
- 2年夏の県大会:最高154キロ
- 2年秋の県大会:最高157キロ
- 3年生時の4月:最高163キロ(非公式記録)
- 3年夏の県大会:最高160キロ
150キロを常時出せるようになった2年時からほぼ無双状態になり、3年時の地区大会の防御率は0.62でした。
大船渡高校の野球部は決して強豪ではなかったため、大会を勝ち上がるために怪物ピッチャーの力に頼ることになります。
実際に高校3年時の佐々木朗希投手はエースで4番、まさにチームの大黒柱でした。
そんな中、当時大ニュースになった事件が起きます。
県大会の決勝で投げずに敗退したことが物議を醸す
35年ぶりの甲子園出場がかかった3年時の夏の大会決勝。
ここまで相手を圧倒してきた佐々木朗希投手が監督の指示により出場せず、花巻東高校に2-12であえなく敗退。
この登板回避に対して、監督はこのように述べました。
「3年間で一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐためですから。私が判断しました」
佐々木朗希投手は「投げたかったが、監督の指示だから納得している」とあくまで冷静なものでした。
この登板回避騒動に関して非難する関係者もいれば、ダルビッシュ有投手や桑田真澄さんなどの新しい価値観を持った関係者は「この監督の決断は英断」と評価するなど、完全に賛否が分かれました。
個人的には、佐々木朗希投手本人やチームメイトが納得しているのであれば、外野の私たちは口出しできないと思います。
その後の佐々木朗希投手の活躍ぶりから、最近は「あそこで無理させなかったことは正解だった」という風潮になってきています。
これがある意味佐々木朗希投手の学生時代で一番有名なエピソードかもしれません。
【佐々木朗希の学歴】震災で転校した小学や中学・高校時代のエピソード!【まとめ】
この記事では、佐々木朗希投手の学歴や学生時代のエピソードをまとめました。
佐々木朗希投手は小学生の時、東日本大震災に被災し転校を経験します。
中学生で剛速球を投げるピッチャーとして注目され始め、地元の高校に進学してから完全に才能が開花しました。
高校3年生の時の地区大会決勝の登板回避は関係各所で物議を醸し、佐々木朗希投手の学生時代で一番有名なエピソードになっています。