1990年代から2000代初めにかけて大活躍したキャッチャー・古田敦也(ふるた あつや)さん
現在はテレビ出演をこなしながら、YouTubeでもプロの技術を伝えてくれている古田敦也さんですが、現役時代を知っている人も減ってきているのが現状です。
そこでこの記事では、古田敦也さんのすごさについて伝えつつ、頭いいエピソードも紹介していきます。
古田敦也のすごさ①とにかく頭いい!
兵庫県の川西市に生まれた古田敦也さんは、小学3年生で野球を始めました。
中学時代には私立の強豪から誘いが来るレベルの選手であったものの、そこまで野球に重きをおいていなかった古田さんは、家に近い兵庫県立川西明峰高等学校に進学。
川西明峰高校から立命館大学へ
川西明峰高校は偏差値が42と言われていて、決して進学校ではありません。
しかも甲子園とは無縁で大学の野球推薦も見込めない中、古田さんは一般入試で立命館大学経営学部経営学科(偏差値55)に進学しました。
ちなみに関西大学商学部(偏差値55~57.5)の一般入試も受験していて、こちらも合格。
関西の名門「関関同立」の内、2つも合格するとは…すごいです。
通っていた高校のレベルがそこまで高いわけではなく、高校3年生の8月から受験勉強を始めて短期間で合格したことから、古田さんは突出して頭いいことが伺えます。
野球脳も高かった
考えられる反論として「受験で成功したのは記憶力が良かったからでしょ?」と思われる方の意見もごもっともだと思います。
ただ、古田さんは単に記憶力がいいだけではなく、思考力もバツグンの選手でした。
というのも、言わずと知れた「野村ID野球」の申し子だからです。
ID野球とは「Import Data」で「データを活用した野球」の意味です。野球は確率のスポーツという考えが根底にあり、相手の傾向をデータで分析して勝つ確率を高めていきました。
古田さんの頭の中には膨大なデータが入っていて、そこから導き出されるバツグンの配球で他チームのバッターを圧倒。
ヤクルトスワローズは球団の歴史上6回の日本一を成し遂げていますが、その内4回は古田さん在籍時です。
いかに古田さんの与えた影響がすごいかが分かりますよね。
古田敦也のすごさ②当時は珍しかった打てて守れるキャッチャー
古田敦也さんのすごさ2つ目は、打てて守れるキャッチャーだったからです。
キャッチャーというのは、昔は守備が固ければOKなポジションでした。
古田さんは完全にその概念を崩したところにすごさがあります。
3割常連の巧打者
まず、古田さんのバッティングのすごさについてです。
一番すごいのは、25歳の年からキャリアをスタートして、2000本安打を達成しているところ。
しかもキャッチャーという重責を担っているわけで、本当にすごい選手でした。
打率:.294
安打数:2097
通算本塁打数:217
通算打点数:1009
通算打率が.294というのも、ほぼ毎年3割近く打ち続けていたことになるのでえげつない数字です。
巧打者を示すもう一つの数値として、三振数が100を超えた年がないことが挙げられます。
500打席以上立って三振が41だけという年もあり、いかにバットコントロールに優れていたかが分かります。
守備は超強肩!
古田さんと言えば、超がつくほどの強肩です。
1993年には盗塁阻止率.644(現在も日本記録)という大記録を打ち立てるなど、「日本で最強の肩を持つ」と恐れられていました。
さすがに晩年になって衰えが見え始めると3割台、2割台と落ちていきますが、それでも通算盗塁阻止率は.462とこちらも日本記録になっています。
それに加えて、キャッチング(フレーミング)や配球面でも突出。
通算10度のゴールデングラブ賞を受賞しています。
古田さんの全盛期には、横浜や中日で活躍した谷繫元信さんと同じリーグでしのぎを削っていました。
谷繫さんもかなりの名捕手でした。
そんな中でもゴールデングラブを10度獲得した事実からも、古田さんが素晴らしい守備能力を持っていたことが分かります。
古田敦也のすごさ③プロ野球を救った
古田敦也さんのすごさ3つ目は、選手会長としてプロ野球の危機を救ったことです。
2004年プロ野球は1リーグになろうとしていた
時は2000年代初頭、野球人気がじわじわ落ち込んでいき、球団の経営を親会社が支えることがかなり厳しくなってきていました。
そんな中、2004年に衝撃的なニュースが報道されました。
当時の近鉄バファローズの親会社である近鉄グループの財政難に事を発し、オリックスと近鉄の合併構想が明らかになったのです。
当時ホリエモンが球団買収する話も出ていて、報道が過熱していたのを覚えています。
各球団の経営状況の悪化があった中で近鉄の経営難の話が出たこともあり、一部球団のオーナーを中心とした勢力によって、8から10球団程度の1リーグ制への変更が強硬に進められようとしていました。
「たかが選手が」と言われても不屈の精神で立ち向かう
球団数が減るとプロ野球選手の絶対的な雇用数が減ってしまうため、当時39歳だった選手会長の古田敦也さんが動きました。
まず「2リーグ制の維持と球団合併反対」を主張して球団代表との対話を行いますが、代表より上のオーナーが進めている構想なので話が進まず。
「代表じゃ話にならない」ということでオーナーとの対話を求めたところ、そこで巨人の当時のオーナー・渡辺恒雄はこう言います。
「無礼なこと言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」
この発言がきっかけで、対立を深めたオーナー側と選手会は最終的にストライキにまで発展。
このストライキやファンの後押しが実って、1リーグ制への移行案は消滅しました。
もちろん古田さん一人の力だけではありませんが、古田さんが選手会の会長としてオーナーと粘り強く交渉してくれたおかげで、現在も日本のプロ野球は2リーグ制で12球団が保たれているわけです。
この功績はプロ野球界にとって非常に大きく、後世に語り継がれることは間違いないでしょう。
古田敦也のプロフィール
名前 | 古田敦也 |
生年月日 | 1965年8月6日 |
出身地 | 兵庫県川西市 |
所属 | エーポイント |
古田敦也さんの現役時代のすごさを知っているファンは、今でも古田さんが大好きです。
古田さんのフレーミング能力の高さは、絶品ですね。 谷繁さんとは全く異なるタイプですが、2人とも凄いですね。 古田さんは、本来のポテンシャルに野村克也監督の捕手としての教育の科学反応が、レジェンド捕手になったと思います。
今のプロ野球は古田さんのおかげで成り立っている
古田敦也のすごさは頭いいところ?天才キャッチャーを徹底解説!【まとめ】
この記事では、古田敦也さんのすごさについて頭いいエピソードなどをまとめました。
古田敦也さんのすごさは、頭いいこと、打てて守れるキャッチャーだったこと、そして日本のプロ野球界を救ったことです。
日本球界の宝と言ってもいい古田さんには、これからも元気で活躍していって欲しいですよね!